白隠禅師の講義は、坐禅が大切で、一度止まって観るという作業が
必要な事が見えてきました。
講義を終え、坐禅に入ります。
広間のテーブルを寄せて、各自坐ります。
和尚さんに坐り方の基本などを教えていただき、坐禅を組みます。
初めての体験の方も多く、戸惑う事を聞きながら、
1回25分の坐禅を開始しました。
25分という時間は、ちょうど足のしびれが来るか来ないかの時間です。
長いと感じる人もいれば、あっという間だったという人もおります。
チーンと金がなり、始まりました。
辺りが静まっているので、
大勢人がいるのに、気配が消えます。
集中という状態を感じられると、気持ちが良くもなります。
こんなにも、黙って動かない時間を、いつ過ごしただろうか、
そんな集中する時間となります。
坐禅は目を開けて行います。
目先の1.5メートルくらい先をぼんやり眺めます。
人によっては、床がゆがんで来たり、模様が見えたりという
幻覚が訪れる人もいるのです。
それを、騒ぐでもなく、話すでもなく、
呼吸に集中します。
25分経つと、また金がチーンとなります。
坐禅終了の合図です。
足は、やはり痛いです。
5分の休憩のうちに痺れを取って、また次の坐禅が始まるのです。
ここで、禅問答の為の公案の発表がありました。
坐禅をしている時に、この公案の答えを探すのです。
公案は、
一人の僧が趙州和尚に問うた。
「狗子に還って仏性有りや無しや」(犬にも仏性があるでしょうか?)
趙州和尚は答えた。
「無」
趙州和尚は「無」と答えた、これはどういう意味かという問いです。
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう
生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。
所説ありますが、この教えをそのまま、鵜呑みにすると、「犬にも仏性がある」と、いう答えが本当に思います、
でも、趙州和尚は「無」と答えた、これはどんな意味なのか?という問いです。
皆様も考えてみてください。
「無」の意味ですね。
2回目以降このような答えを求めて坐ります。
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