報告3<禅・こころの合宿>

 

昨日の続き

「坐禅和讃」

衆生(しゅじゃう)本來佛なり
水と氷のごとくにて
水をはなれて氷なく
衆生の外に佛なし
衆生近きを不知(しらず)して
遠く求(もとむ)るはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て
渇(かつ)を叫(さけぶ)がごとくなり
長者の家の子となりて
貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻(ろくしゆりんね)の因縁は
己(おのれ)が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏(ふみ)そへて
いつか生死(しやうじ)をはなるべき
夫(そ)れ摩訶衍(まかえん)の禪定(ぜんじやう)は
稱歎(しようたん)するに餘(あま)りあり
布施や持戒の諸波羅蜜(しよはらみつ)
念佛懺悔修行等(とう)
其(その)品多き諸善行(しよぜんぎやう)
皆この中(うち)に歸するなり
一座の功をなす人も
積(つみ)し無量の罪ほろぶ
惡趣いづくにありぬべき
淨土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を
一たび耳にふるる時
さんたん隨喜(ずゐき)する人は
福を得(う)る事限りなし
いはんや自(みづか)ら回向して
直(ぢき)に自性(じしやう)を證すれば
自性即ち無性(むしやう)にて
すでに戯論(けろん)を離れたり
因果一如(いちによ)の門ひらけ
無二無三の道直(なほ)し
無相(むさう)の相(さう)を相として
行(ゆく)も歸るも餘所(よそ)ならず
無念の念を念として
謠(うた)ふも舞ふも法(のり)の聲
三昧(ざんまい)無碍(むげ)の空ひろく
四智(しち)圓明(ゑんみやう)の月さえん
此時何をか求むべき
寂滅(じやくめつ)現前するゆへに
當所即ち蓮華國(れんげこく)
此身(このみ)即ち佛なり

 

「長者の家の子となりて
貧里に迷ふに異ならず」

本当は幸せなのに、そのことに気付かず、

私は不幸だと、嘆いています。

「六趣輪廻(ろくしゆりんね)の因縁は
己(おのれ)が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏(ふみ)そへて
いつか生死(しやうじ)をはなるべき」

苦の道である闇から抜けられないのは、生や死からは、離れる事です。

「夫(そ)れ摩訶衍(まかえん)の禪定(ぜんじやう)は
稱歎(しようたん)するに餘(あま)りあり」

その為に、坐禅をすることは、大きな支えになるでしょう。

「皆この中(うち)に歸するなり」

それには、最初に悟りを開く事が重要です。=「自己受容」

「一座の功をなす人も
積(つみ)し無量の罪ほろぶ
惡趣いづくにありぬべき」

一度止めて、客観的に観る、止める事で、見える物があります。

「淨土即ち遠からず」

幸せは、今ここに自分の中に存在します。

 

 

今日は、ここまでにしますが

1790年頃の白隠禅師の歌です。

この頃から、「悟り」=「自己受容」が大切と歌われているのです。

こんなありがたい歌があるのに、我々はなにをやっているのでしょう??

人は、昔から同じ問題で、悩み、同じ問題で苦しみ、同じ答えを求めている。

何故?気付かない??のでしょうか?

2000年以上前のお釈迦様の時代から、同じ事を繰り返しているのです。

 

それは、答えが自分の裏側に隠れているから

もっと、いえば自分の中に隠れているから

水の中にいる、魚のように、水の存在が、感じられないのです。

我々も、空気の中に存在しています。

空気の中にいるから、音が伝わります。

当り前の世界にいると、目の前の物が見えなくなります。

物事をちょっと客観的に観ると、感じられない物が感じられると思います。

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