「禅と悟り」「マインドフルネスと自己受容」

「禅と悟り」 「マインドフルネスと自己受容」

 

坐禅の目的は「悟り」と言います。

「悟り」とはある意味気付く事と思いますが、

坐禅をして、自分を客観的にみた境地がそれにあたると思います。

現代の「マインドフルネス」に例えると、悟りにあたる部分は、「自己受容」。

時代背景を考えると、古来の「悟り」より、現代の方がある意味

その境地を得る事はしやすいのかと思います。

「自己受容」は学ぶ事で方法がわかります。

しかし、階級制度があった時代はそうはいきません。

いくら学んでも、生まれた瞬間そこに差別がある。

この差別は、どう学んでも変える事の出来ない苦しみであったと思います。

釈迦が悟りを得られたのも、

「釈迦族の王子として生まれた」からかもしれません、

それとも、誰でも得られるものではないという事で、王子としたのかわかりませんが、

当時、いやつい最近まで、家柄のような差別が付きまとっていました。

今まだそのような制度がある国はあると思いますが、

生まれてすでに平等ではない訳です。

この状態にいくら、気付きの「悟り」を得ようと言っても、

なかなか難しいことだったと思います。

それでも、そんな差別を「苦」ともせず、前向きになれていれば、

「悟れる」かもしれません。

現代は(日本ということで)、この差別が目に見えてありませんから、

「悟った」という状態も、そんなに難しい事ではないかもしれません。

坐禅の、その宗教性を無くしたものが、

「マインドフルネス」とすると、その「悟り」の部分は、「自己受容」

誰でも、自分の事をしっかり受け入れれば、「悟り」のような

感覚が訪れます。

「自己受容」は学ぶ事が出来ます。

差別のあった時代は、いくら学んでも、「差別」の枠が外れません。

だから、来世に望みをかけて、なんていう宗教観になってしまう訳で、

ここに「自爆テロ」を生む宗教の怖さが潜んでいます。

「マインドフルネス」で、客観的に捉える体感作用と、

「自己受容」の学びからの「気付き」で、

次世代より、この悟り感覚が当り前に得る事の出来る感覚なのかもしれません。


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